2011年10月21日金曜日

親友への返信

東京の小学校時代の親友から来たメール

期日前

 別に暗い考えの持ち主ではないが、喜寿ともなればいやでも死ぬ日の

ことを考える。

死ぬ時は病院のベッドの上ではなく、畳の上が望ましいと平凡に

考えている。

 しかし事故で急死することもあるのが人生だ。

 もちろんあとに残す者のことを考えるが、

一番大切なのは妻にいう言葉である。

畳の上で大往生、妻の手をとりながら逝きたいと思った。

最後の言葉は有名なものが残されているが、

私はただ平凡に「ありがとう」と妻に言いたいと思う。

 でもなにも死ぬときに言うことはない。

普段から小さなことにでもお互いにありがとうと言っている。

それで今日期日前投票じゃないが、一番言いたい妻への

感謝の言葉をいうことにした。

 毎日が日曜日の日曜の昼食後、

「洋子さん、俺、ほんとうに洋子さんと結婚して良かったと思っている」

 ごく自然に言えた。妻も「わかっているわ」

というように笑顔で受け入れてくれた。
 

  まだ十年は生きるだろう。やりたいことはすべて早目に

済まそうと決心した。

 尊敬する歌友の、その奥さんは常に数年先までプランができていて、  

 進行中のものもあれば、すでに終わっているものすらある。

 想定外のことが起きる現代、ほんとうに見習おうとこのごろ、切に思う。

  

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終末期活動開始
  

  私も今、妻と共に生きているのはとてもラッキーな事であると思って

1日1日を無駄にせず有意義に使おうと努力している。

残り少なくなっているので忙しい。まだできる仕事は続けてやる。

まだ始めていなかったことはすぐにスタートを切る。

 要らない物の片付け方を始める。本類、書類、

スケッチブック、作品、写真。

地震で散乱した度に整理処分してきたけれど、不十分。

床が傾き壁に亀裂、トタン屋根は錆び、築41年の家も

私たちが居なくなれば後を継ぐ者がいないだろう。

大型の額縁、油彩作品はどうしよう?

 津波で死んだ画友が3人。家が流失したり1階が水没したした画友が7人。


空襲でアトリエごと全作品を焼失した画家が多く居た。

私の恩師杉村先生もその一人。

 
 

今は全滅した雄勝の硯伝統産業館で2005年、2007年と

2回の回顧展をした時に次は喜寿か傘寿でパートⅢをしたいと

展覧会チラシ挨拶文に書いた。

4月生まれの私に今年の3月は喜寿の終わり

3月は非常勤講師の仕事も終わる時期、

保育園の講師も少し閑になる頃。市美術展、文化協会もひと休みの時。

 館から誘いがあれば、また個展をやっていただろう。

そして全作品流失.最悪の場合自分も愛車諸共、

勝湾か雄大川小学校近くの新北上川の藻屑に

  なっていたかも

 でも今も自宅で絵が描ける。なんという幸せ。

その代わり前回の回顧展の後に館の2階収蔵室に誰かの企画展の

ドタキャン穴埋め用にお使い下さいと預けていた20~15号23点が

水没した。

美術館に収められなくとも、画集刊行できなくても、PC,ネット時代まで

長生きしたお陰でホームページ、ブログで展示公開しDVDで

画集を作れる。

   これは展示期間の制限が無い。追加点数の制限も無い。額縁不要。

 まだ新しい絵の具、キャンバス、画用紙、

スケッチブックがかなりある。

描きたい題材もまだまだあるし、北斎でなくともまだ向上の余地

もあるだろう

新作完成の喜びもまだまだ味わえるなら、もっと頑張りたい。

 前立腺癌はホルモン剤の断続服用でまだ抑え続けているし、

緑内障も点眼薬で快方に向かっている。あと10年いけるかも。

妻の元気なうちが勝負どころか。

モウ喜寿を過ぎたじゃない、マダマダ喜寿を過ぎたばかりだ。

     さあロングスパートで駆けるぞ!